昭和40年12月07日 朝の御理解



 私どもは、お芝居を見ましても、様々な役柄というのがございます。二枚目スターもおれば三枚目、いわゆる洒落役ですねえ。実役。悪役。様々おらなければその芝居は出来ません。皆が皆二枚目役ばっかりそのしたい。それではまあ芝居が出来ません。天地の親神様も、それぞれの個性、それぞれの徳分に応じて、様々な役柄と思うですか。椛目全体。例えば、教会なら教会、沢山ありますね。
 昨日は北野の記念祭で御座いましたが、沢山の先生方がおられます。やっぱりそれぞれの役柄というのが御座いますですねえ。もう何時も先導される方は何時も先導される。玉串のシドリをなさる方は何時もシドリ役。と言う様にです大体十何人かの先生方がお祭りを仕え役を私共に願っておられる、求めておられると私は思うのですね。ですからその持ち場言うなら立場において。
 自分達はどこのところの役を、勤めさせて貰うかと言う事を、先ず分からせて貰うて、そしてそのことの役柄に精進していかなければいけない。どうですか皆さん。椛目はどう言う所がられても、その役柄というのは、もう大体決っておるですねえ。大幣行事なんかをなさる方達は、もうやっぱりその立ち居振る舞いの綺麗な先生が、必ずなさいます。それでやはりこっちのほうのこう、かんの強か先生が、そのがそれをやりますとやっぱりお祭りが乱れてくる。
 お話の上手な先生は必ず、最後のお説教の役を受け承られます。ね。椛目でも色々それがあると思いますよ。だから椛目全体としてはだから、椛目の広前は、どういう役柄が一番適当かと言う事ですね。私はどうも椛目は言うなら三枚目どころじゃなかろかと思いますね役柄が。ま言うなら阿呆役です。ですから私自身本当にもう、馬鹿と阿呆になりきらせて頂こうと、もうなりきらせて頂くと言う事が有り難い。
 昨日は、長男と二人であちらに参りましたんですけれども、あちらでも帰ってからでも話させて頂いたんですけれども、本当に阿呆役をやり抜かせて頂けておるという事が有り難い。それが触らない。触らないどころか有り難い。もう実にそれがもう何というですか、そのまたタイミングなんかの素晴らしいことにまた驚く。皆さんテレビを何時もご覧になるから、ご承知でしょう。
 あの関西に、あの藤原じゃない、藤山寛美という俳優がおりますですねえ。名人です。こらもうあの芝居の評論をする人達が、言っとりますけれどもね、この人はこの人のように、間の素晴らしい人は無かち。もう、後にも先にも、こういう役者は出らんだろうと言うております。ね。間です。もうこのセリフのやり取りを致しますでも、この間が大事なんです。その間で両方が生きてくるのです。
 どんなに名セリフでありましても、間を取り違えますともう相手もその具合が悪い、その芝居そのものが崩れる。その間のとり方においては後にも先にも出らんだろうと言われております。私今日御神前にでらせて頂きましたら、藤山寛美と言う事を頂くんですよ。いわゆる藤山、藤山とはあの藤の花の藤が書いてある。藤の花がこういっぱい咲きますと、みんな下からこう見上げてはあ綺麗に咲いたと言うて、こう見上げるです。
 寛美とは、寛大の寛です。美しいと書いてあります。広い豊かと書いてあります。ね。でないとですね、人間が信心がもう神経質になったらおかげは受けられませんですねえ。大体私は人間は神経質で、まどっちかというなら大体は、私は利口者で通って来とるでしょう、商売さして頂いておりますので、もう椛目の大坪さん方の息子さんな、もう本当に利口な、どげな良か商売人にならっしゃっじゃら分からんち言うて、みんなが評判するくらいに、私は利口だったんです昔は。
 そのその私がもうこの頃はその利口じゃない。もうとにかくあらぁ、ちった馬鹿じゃなかじゃろかちいうごたる風に、何時もしておられるということが有り難いです。悪口が聞こえてくるんです。ね。というて顔色変えることも要らんね。もうはっきり皮肉を言うておられるんです。昨日ある先生が、「大坪さん」ち、「ああたん方には、えらいあんた建築が出来よるげなじゃんの」ち。
 「もう久留米辺じゃもっぱらの評判ばい」ち、「何千万かかるじゃろかち言うちから、評判しよるばい」ち言うてそれがその何かその、馬鹿に言う様な言い方なんですね。それで私は「一丁評判倒れせんごたるふうに、倒れんごたるふうに、一丁せにゃ出来まっせんの」ちいうちから、あの話したことです。もうそれでもひとっつもその、俺を馬鹿にしてと言うてその、言う様な気持ちも致しませんです。ね。
 どうでも一つお互い、椛目の役どころこれはもうひとつ、私を始め皆が阿呆役を受け承らせて頂いておると言う様な、んなら椛目の方達がみんな、その阿呆かというとですね阿呆じゃない。阿呆役を受け承るのです。ね。藤山寛美が、阿呆というわけじゃありません。けれどももうほんとに阿呆役になりきってます。いま私が申しますように、ね。ならここのまいうなら、久保山先生にしろ、久富先生にしろ、秋永先生にしろ、ね。
 どこにも私のこの、我が物宝かもしれませんけれど、ほんとにどこにもいわば類のない人柄だと私は思うです。信心の上に言うても。ね。いうなら利口なっでもありゃ、気の利いてもおるわけです。けれどもやはり受け承るところは阿呆役。いわゆるその阿呆役は素晴らしい。この藤の花は、見事に咲いているというふうに、下から見上げられるような信心。為にはやはり寛美でなからなければならないと。
 広いだけではなく美しゅうなからないけん。限りなく豊かになろうではないかと、限りなく美しゅうなろうではないかと。しかも願いとするところは、私は富士の山の富士だとこう思っております。だから阿呆役で日本一になろうじゃないかと。これならなれんことなかろうと思うんです、椛目がその気になったらです。特にひとつ今日はそういう意味合いにおいてです。しかもそのやはり間が良うなからなければいけません。
 いわゆるそこんところを、お繰り合わせ願わねばいけません。もう恐らく椛目ぐらいに阿呆役の素晴らしい所はなかろ、後にも先にももうあげんとは出るまいと、言われるくらいな一つ、阿呆役を演じ抜かせて頂こう。私はそんなふうに改めて覚悟しておるのでございますけれども、どうぞやはり稽古です。赤面弁慶になって、こうです、ああですと言うて言い訳することも、なぁんもいりません。
 気の利いた事することはいりません。ね。本当に一つどこにおっても、どういう場合であっても、それがいわばそのホケのごとしておられるという事。実は心ではそうではありません。ね。芯から馬鹿になれ、阿呆になれというのじゃありません。そこを馬鹿役であり、阿呆役を勤めさせて頂こうというのです。目指すところは藤山寛美。そこから椛目は、おかげ受けていかねばならんとこう思うております。
 どうぞ特に一つ今日一日、なかなか、やはり阿呆役というのは難しいのですねえ。私共も、ついこの頃までは、そんな阿呆役を受け承ることは、ほんに馬鹿らしいことのように思うとったけれども、今でもそれが、完全にスッキリしていることではないけれど、そこんところを、まあ、一つ、残された信心ですから、そこんところを、完成していかなければならないと。
 どうぞ本気で一つ阿呆役を承らせて貰い、阿呆役にならせて頂く稽古させて貰うと。それにはどうしてもここに、ギリギリ根本的な信心という物を把握しとかなければ阿呆約は勤まりません。それは何時も私が申します様に人から阿呆と笑われてもよいけれどもその、神様からだけは笑われてはならんという、信心にならなければならんと思うですね。
   どうぞ。